ノーラ・チッポムラ「父のような自画像」
プレゼンテーション
テキスト・写真 水野立子
2014年6月29日(日)「NoraとIINAー作品について語る」
会場:京都芸術センター(制作室6)
ノーラが、8月からの京都での滞在制作を前に、去る6月25日から30日まで打ち合わせやミーティングのため初来日、京都に5日間滞在しました。
「父のような自画像」振付・出演:ノーラ・チッポムラさんと、「熱風」作・演出:飯名尚人さんのプレゼンと、Q&Aを行いました。そのレポートをお届けします。
私にとって作品をつくるということ。
アフリカ、黒人の身体、個人からグローバルへ。
私は、南アフリカの以前はウディジーアと言われていたジンバブエの出身です。いまはN.Y.ブルクッリン在住で、15年間コンテンポラリーダンスを創作してきました。自分の個人史、場所性、歴史性などからインスピレーションを受けて作品をつくっています。それぞれが置かれている政治的な立場、個人的な興味やこだわりから、それがグローバルなものとなって発展し作品として出てくるのではないかと思っています。また、私はアーティストである前に市民である。従って、社会の一員として果たさなければならない役割があると信じています
作品のテーマは、常々アフリカ・黒人の身体・黒人女性としての身体を追求しています。
そして、アフリカを語るとき、いわゆるステレオタイプの“アフリカ”ではないものをどう提示していくか、あるいはどうひっくり返すか、ということを意識して作品をつくっています。
というのは、これまで“アフリカ”は、文化的にも政治的にも西洋の目線で、西洋の文脈の中でだけ語られてきました。ヨーロッパやアメリカとの関係の中で、ステレオタイプとしての“アフリカ”として、言説的なトピックスとしてしか取り上げられず、“アフリカ”を本質に語られることはありませんでした。
私はその中で自分の黒人女性としての身体、自分の主体としての身体をどう見せていくのか、アフリカ女性として、言説的ではないアフリカを伝えていきたいと思うのです。
アフリカの歴史というのは、アメリカやヨーロッパの歴史とイコールとして語られてきました。1980年以降、ソ連やベルリンの壁が崩壊する中で、アフリカの物語というのは、グローバルの中で中国がおかれている状況と同じように、世界の出来事の中で語られるべきこと、世界が共鳴する物語だと感じています。
またこれまでは音楽や舞台芸術の中で、西洋とアフリカの相互の関係や影響はありましたが、東洋とアフリカの関係はなかった。わたしの今回の京都滞在制作の機会で、それを探っていけたらいいなと思っています。
ノーラ@東福寺
京都での滞在制作について
今回、京都で制作する作品「父のような自画像」は、自分の個人的な経験を反映させていると同時に、父の記憶がほとんどない私にとって、父を知りたいという欲求とは別に、アフリカにおける男性性とは何なのか、アフリカとは何かということに行き着く、普遍性のあるものにもなると思います。今まで黒人女性の身体性を追求してきましたが、初めて黒人男性の身体性、精神性を追求していくことになります。
アフリカ大陸には、いろんな国があり個性がありますが、あえて“アフリカ”はひとつの共同体であると思っているので、“アフリカ”というように一括りにしてお話します。アフリカの文化の中でも光における象徴性、光の持つ意味は、ヨーロッパや日本とは違います。今回京都でのリサーチを通してその光について探りたいと思っています。
また、今回の作品で単に黒人の男性性、アフリカの身体性をみせるということなら、アフリカでもアメリカででも、どこでみせてもいいわけです。が今回、京都で制作する意味を考えると、日本人における男性性とは何か、日本での男らしさは何かということを探求し、作品に取り込んでいきたいと思っています。ですので、京都では男性だけではなく、女性からみた男性性も重要だと思うので、インタビューや対話をしてリサーチしたいと思います。昨日、日本の伝統芸能における男性性と女性性は表裏一体であるということ聞き、感銘を受けました。ですので、男性だけではなく、女性らしさを通しても考えていきたい。アフリカのステレオタイプの男性像をひっくりかえしたいと思っているのと同様に、私の中にもサムライのような東洋における男性のステレオタイプがあると思うので、この滞在制作を通して、いい意味でひっくり返したいと思っています。