京都芸術センターで行われた飯名尚人による「熱風」プレゼンテーション Vol.3
2014/6/29
話:飯名尚人
テキスト聞き起こし:今村達紀
編集:水野立子
「第3幕:映画」のワンシーン。台風の中、沖縄ロケが行われた。
「熱風」って何ですか? 溶ける人と溶けない人。
この作品で登場する場所は、モスクワ、キューバ、サラエボ、沖縄、タスマニア、ジンバブエ。結果的に政治的な問題を抱えている場所のように見えますが、政治的な問題を語りたいわけではないんです。昨日のノーラさんとのミーティングの中で、彼女が「アーティストっていうのは常に政治的なものなんだ」という発言があった。「政治的」っていう意味は、これからの経済がどうだとか、原発がどうだとか、そういうことを直接的に観客に説得することではなく、もうちょっと違う意味です。<社会の中で自分がアーティストとして存在する>というエネルギーと、<社会という人の輪の中にいて、その中で影響し合っている>ということです。
僕は平野さんに「この作品”熱風”を一緒にやりませんか?」とオファーした。そしたらですね、二回断られた(笑)。僕はすぐに話に乗ってくれると思ったんですよ。なにしろ10年来の知り合いで、NGOみたいな活動まで一緒にやって、で、今回僕の作品一緒にやりませんかって言ったら、「うーん、、、」って断られた。断られた理由は何かというと「飯名さんがなぜこのことを言いたいのか、僕に伝わってこない。飯名さんがまだ言葉にできていない」って言われた。その通りでした。「そうか、伝わってないんだ」と思ったわけです。僕の頭や心の中には、色々なことがいっぱいあって、自分ではモチベーションになっていることが、今これから一緒にやりたいコラボレーターには何一つ伝わっていない。これはもっと考えなくてはいけないと思った。シナリオ練り直したり構成考えたり。それでもう一回オファーしたんです。そしたら「まだダメ」って言われた(笑)。断られた。
なんか言葉に出来ないんです、どうしたら自分の考えていること、思っていることが平野さんに伝わるんだろうって必死に考えるわけです。3回目のオファーで、僕が最終的に平野さんに言ったのは、「僕も実はわからない、”熱風”というのが何なのか。モスクワからジンバブエに至るこの流れの中で一体何をしようとして、何が見えてくるのか、まだ的確には言葉に出来ない。でも僕らの中には確実に”熱風”が吹いている。なんで僕らに”熱風”が吹き付けられてくるのか、何故なのか、どういうことなのか。そのことについて一緒にやってもらえませんか」と。そしたらあっさり「ああ、そうか、だったらやれる」と言われた。それで初めて参加してくれることになった。平野さんは「全部が決まっていて、演出家があーしろこーしろっていうような作品だったら、俺はできないと思ったけど、分からないから一緒に考えていこう、っていうことなら、俺にもできるような気がした。是非やらせてください。」って言ってくれた。
だから「熱風」って何ですか?って聞かれると、「熱風というのは、つまり〇〇です」いう風には答えられません。僕にもまだわかんないです。日常生活でも「なんでそんなこと言われなきゃいけないんだろう」「なんで僕がこんな目にあわなきゃいけなんだろう、別に悪いことしてないのに」とか。そういうことってあります。そんな時に、「熱風が吹いてるな」って感じる。その試練みたいなことに、溶けてしまうか、それとも立ち向かうのか。溶けるってどういうことなんだろう。溶けるとか溶けないって自分で選べるのかな?とか。
偶然と必然に引き合わされてノーラに再び出会う。僕たちはどこへ行くのだろう?
なぜノーラさんと一緒にやれることになったのかということを話します。京都で水野さんにこの作品のプロットを話したときに、「どういうダンサーに出てもらいたいの?」と聞かれて、直感的に「アフリカ人のダンサー」って言ったんです。そしたら水野さんがN.Y.在住でジンバブエ人でノーラさんってダンサーがいるよ、って。「ノーラ?なんか聞いたことある名前だなー」と思って探っていったら、僕がやっている「国際ダンス映画祭」というイベントで、以前彼女が主演している映画がエントリーされていて、上映したことがあった。3年ぐらい前。アフリカの大地で真っ赤なドレスを着てすごくエネルギッシュに踊っている映画でした。その映像を倉庫から出して来て、もう一回みたら、やっぱりノーラさんだった。これはきっと何か縁があると思って、是非ノーラさんに出てもらえないかと、水野さんに交渉してもらったわけです。
(会場にて動画の上映)この動画は、ノーラさんの作品で「The Last Heifer(最後の牝牛)」です。非常に体が柔らかくて、コントロールされた動きですよね。どういう動きのメソッドが背景にあるのだろうって、興味がわきます。
「The Last Heifer(最後の牝牛)」
さっきもノーラさんが言っていましたが、アフリカの音楽でアフリカ人の女性が踊ること、Shinbowさんもそうですけど、沖縄音楽をやるときに観光音楽をやりたくない、って。このことって、我々が沖縄とかアフリカという言葉で何か勝手に刷り込まれていることに対する抵抗というのかな、そういうところの共通点もある。「熱風」で考えたいことは、刷り込まれてないものをどうやって持ってくるか。それが可能なのか、ということです。
つい最近バルカン半島で大洪水があって大変なことになっています。サラエボの音の録音をお願いした女性からメールを受けとり「大洪水でちょっと録音が遅れるかもしれない、洪水で地雷が流れ出して来ていて、すごく怖い」って。紛争のときに埋められた地雷が、洪水の土砂と一緒に交じって街中に流れ出していると。今、2014年です。95年に幕を閉じたはずの紛争です。その地雷が流れて来る。バルカン半島だけじゃなくて、そういうことがまだまだ残っている。片付いていないんです、終わっていない。じゃあどうするか?こういうことが起こらないようにするにはどうすればいいか?何ができるだろうか?そんなことを、この作品の背景で考えながら作っています。
社会批判や政治的なことを、芸術上の表現で言い過ぎると、あるいは芸術を語る場で政治の議論が上回る時、色んな事故が起こるんです。事故というかトラブル、あるいはコミュニケーションの破綻、誤解。問題の本質のすり替え。この作品はそうはなりたくないんです。実はもうちょっとロマンチックな考え方をしています。平野さんの写真のテーマは「これから僕たちはどこへ行くんだろう。人間はどこに行くんだろう。今ここにいる人たちはどこに行くんだろう?」ということをテーマにしたシリーズで「人間のゆくえ」っていうタイトルの写真シリーズです。
そのテーマがどういう風に「熱風」につながっていくか。単なる過去の歴史の批判ではなく、これから僕たちはどこへ行くんだろう?ということ。少なくとも、僕の中でそのことが考えられるようなクリエイションになればいいなと思っています。
(了)